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終戦記念日
■ 終戦記念日とは
■ 歴史

■ 法律
終戦特集 〜太平洋戦争の歴史を振り返る〜
■ B29による本土空襲始まる
■ 東京大空襲

■ 沖縄戦
■ 広島・長崎に原爆投下
■ ポツダム宣言受諾
■ 戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式
■ 極東軍事裁判
終戦記念日
■ 沖縄(慰霊の日)
■ 広島(広島平和記念式典
■ 長崎(長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典)
靖国神社
■ 概要
■ 靖国神社問題
■ 靖国神社問題を分かりやすく整理してみる
■ 「追悼」「顕彰」「慰霊」
■ A級戦犯について
■ 靖国神社問題を更にわかりやすく
終戦記念日 2013年に放送されたドラマ
■ さとうきび畑の唄 
3月10日〜東京大空襲 語られなかった33枚の真実
■最後の赤紙配達人〜悲劇の“召集令状”64年目の真実〜
■ 総理の密使〜核密約42年目の真実〜
終戦記念日
 ■ 終戦記念日とは
一般に、様々な戦争終結の各国における記念日を意味します。
日本では昭和20年8月15日における第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)の終戦を記念した日。正式名称は「終戦の日」。
昭和20年8月、御前会議における昭和天皇の御聖断により戦争終結が決定され、8月14日に終戦詔書を渙発、翌15日正午に天皇自ら戦争終結を国民にお伝えになる録音放送「玉音放送」がラジオから流された。この放送を受けたほとんどの日本人は天皇の御意志を奉戴して武装解除しました。
9月2日に東京湾海上で米軍戦艦ミズーリ号甲板で日本全権代表は降伏文書に調印し、正式に日本は連合国に降伏しました。

この8月15日と9月2日のどちらが終戦かについては意見が分かれます。アメリカやイギリスは後者を終戦とし、韓国は前者を同時に独立記念日として選び、中国やロシアは9月3日としています。
日本人にとっては終戦の詔書が玉音によって放送された日がもちろん一番重要であり、また精神的衝撃も文書調印よりも大きかったため、終戦といえば8月15日という認識が定まっています。
ただし当時は8月15日から9月2日の間にもソ連の侵攻や徹底抗戦を唱える日本軍などもおり、各地で戦闘は続いていました。また、8月15日は「終戦」、9月2日は「敗戦」と分ける見方もあり、議論は続いています。さらに終戦の詔書が渙発された日付は8月14日であるため、この日と解釈することも可能です。
終戦記念日 第二次世界大戦 昭和天皇 徹底抗戦
 ■ 歴史
1945年7月26日、米英中の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求しました。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していましたが、8月6日広島市に原子爆弾が投下され、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続きました。8月10日、日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国側に確認します。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告しました。

1945年8月15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられました。当日は朝から「賢き辺り(=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされました。神聖不可侵とされた最高権力者である天皇の肉声が初めてラジオで放送されたことと共に、戦争終結を発表されたと、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべきできごとであり、大きな衝撃を与えました


1945年8月15日、大本営は日本軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令しました。さらに8月18日には、全面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降に行うように命令、8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令しました。支那派遣軍を除く外地軍に対しては、8月22日に、8月25日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命令しました。大陸や北方戦線では、ソビエト連邦や中華民国との戦闘が暫く続きました。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止するための戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われ、また戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続きました。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者を出しました。また、沖縄の久米島では、日本軍による住民の殺害(久米島守備隊住民虐殺事件)もありました。これらの戦闘は、8月下旬になると、概ね終結しました。

1945年9月2日、昭和天皇は「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が、降伏文書に調印し、即日発効しました。1951年9月8日には、平和条約であるサンフランシスコ平和条約が調印されました。そして、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日をもって、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結することとなりました。
ポツダム宣言 原子爆弾 平和条約 戦争 平和
 ■ 法律
引揚者給付金等支給法(昭和32年[1957年]法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42年[1967年]法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいます。1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催されました。1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定されました。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、お盆=8月15日となっています。

全国高等学校野球選手権大会の会場でも、正午の時報直前にプレーを中断し、選手・観客らが1分間の黙祷を捧げます。3試合の開催となった2010年は正午時点で1試合目と2試合目の間のグラウンド整備が行われており、12時10分のプレイボール直前に黙祷が行われました。

地上戦が行われた沖縄では、6月23日に組織的な日本軍の抵抗が終結しました。このため、現在、沖縄県では6月23日を慰霊の日として休日としています。アメリカ軍による正式な沖縄戦の終結宣言は7月2日ですが、沖縄征服は6月30日と記録しています。しかし、その後も日本軍による抵抗は続きました。9月7日、南西諸島守備軍代表は、嘉手納の米軍第10軍司令部で降伏調印し、沖縄戦は公式に終結しました。このため、沖縄県の公式慰霊施設である平和の礎では、沖縄戦終結の日を9月7日としています。
日本国憲法 アメリカ軍 日本軍 甲子園
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終戦特集 〜太平洋戦争の歴史を振り返る〜
 ■B29による本土空襲始まる
1944(昭和19)年8月、サイパン、テニアン、グアムなどマリアナ諸島を制圧した米軍は、ここを拠点に同年11月から日本本土への長距離爆撃を始めました。米軍が配備したボーイングB29は、ターボチャージャー付きのエンジン4基を備え、爆弾を最大で9トンも積める高性能の大型爆撃機。最高速度は時速587キロと並みの戦闘機より速く、実用上昇高度は1万1千メートルで高射砲が届かない高空を飛ぶことができました。しかも、航続距離は5230キロもあり、マリアナ諸島を発進した場合、北海道を除く日本本土すべてが爆撃可能範囲に入りました。B29の空襲に日本側防空部隊は有効な対抗手段を講じることができず、成層圏から不気味に響く爆音は日本国民を恐怖に陥れました。B29は、日本本土に合計16万9800トンの爆弾、焼夷弾を投下。終戦までに延べ3万3000機が爆撃に出動したが、戦闘中の損害は450機に過ぎませんでした。
B29 本> マリアナ諸島
 ■ 東京大空襲
米軍のB29爆撃機などによる空襲は、1945(昭和20)年に入ると全国の都市に拡大しました。被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されています。爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大しましたが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的でした。特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けました。3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失しました。焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されています。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失しました。
東京大空襲 火垂るの墓
 ■ 沖縄戦
 1945(昭和20)年4月1日、米軍は陸軍4個師団、海兵隊3個師団など約20万人の兵力をもって沖縄本島への上陸を開始しました。日本は陸軍約8万6000人、海軍約1万人で迎え撃ったが、そのほかに中学生以上の沖縄県民2万−2万5000人が兵士として戦場に投入されました。また、高等女学校の生徒ら女子543人も臨時の看護婦などとして従軍しました。「鉄の雨」を降らせる米軍の物量攻撃に対し、日本側は爆弾を抱えて戦車に体当たりする自爆攻撃などで対抗。米軍は沖縄本島を南北に分断する形で進んだため、狭い南部には10万人以上とみられる一般県民が取り残され、米軍の激しい攻撃の中、まさに地獄絵が展開されました。女性や子どもなど非戦闘員の集団自決なども発生し、およそ3カ月の地上戦で県民の戦没者は沖縄全体でおよそ15万人と推定されています。日本軍の戦死者は現地召集の兵士も含め約9万4000人、米軍も約1万2000人に上りました。海軍守備隊の指揮官だった大田実少将は多くの民間人を巻き込んだ悲惨な状況を目の当たりにし、自決する前に本土へ送った報告電文の最後を「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配をたまわらんことを」という言葉で結びました。
 ■ 広島・長崎に原爆投下
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市上空のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾が投下されました。高度約600メートルでさく裂した原子爆弾は、TNT火薬2万トン分の威力があるとされていましたが、巨大なエネルギーは一瞬にして高温の熱線と放射線を発し、すさまじい爆風を巻き起こして通常爆弾とは比較にならない大きな被害をもたらしました。爆心地から半径2キロ以内の地域は完全に焼き尽くされ、その周辺部も爆風によって家屋の大半が倒壊、広島市は一面の焼け野原となりました。死者は爆発時の熱線やその後の火災による焼死のほか、爆風による圧死、残留放射線によって救護に従事した人が時間をおいて死亡するなど、被害は長期にわたって拡大しました。正確な被害実態は明らかでないのですが、広島市は同年12月末までにおよそ14万人が死亡したと推定しています。さらに、8月9日午前11時2分、B29爆撃機「ボックスカー」が長崎市にプルトニウム型原爆を投下。死者は同年12月までに7万4000人と推定されています。米国は戦争終結を早めるために原爆投下に踏み切ったとしているが、広島、長崎の被爆者は今も後遺症に苦しめられており、その人たちにとっての戦争はいまだに終わっていません。
広島 原爆 長崎 原爆 プルトニウム
 ■ ポツダム宣言受諾
 1945(昭和20)年に入ると、連合軍は都市爆撃を強化し、本土の国民も直接の戦争被害を受けるようになりました。資源は欠乏、国内の工業生産力も著しく低下し、戦争遂行が難しいことは明らかでしたが、同年1月に政府は本土決戦への方針を固める一方、10代の少年から40代までを召集して本土決戦の戦力としました。7月26日、米英中3国首脳による日本への無条件降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられました。日本政府はこれを黙殺しようとしましたが、広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下、ソ連対日参戦(8月8日)などに追い詰められ、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、連合国側に通告しました。この事実は、15日正午の玉音放送で国民に伝えられました。太平洋戦争の人的被害は正確に分かっていませんが、日本では民間人も含めておよそ250万人が死亡し、アジア諸国での死者は1800万人に上ると推定されています。
 ■戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式
日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸しました。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちました。9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われます。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたマッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言しました。降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了しました。以後、51(昭和26)年9月の対日講和条約調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになりました。
 ■ 極東軍事裁判
日本のA級戦犯を審理するため、1946(昭和21)年5月から極東国際軍事裁判が始まりました。日本で戦争の指導層となった軍人、政治家ら28人が起訴され、平和に対する罪、人道に対する罪などで裁かれました。被告らはあくまで自衛のための戦争だったと主張しましたが、48(昭和23)年11月の判決では、裁判中死亡した被告などを除く25人が有罪となりました。このうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東条英機、広田弘毅、松井石根、武藤章の7人が死刑判決を受け、同年12月23日に絞首刑が執行された。戦勝国インドの代表として東京裁判に参加したパール判事が、勝者が敗者を裁く戦争裁判の正当性に疑問を投げ掛け、被告全員の無罪を主張したことは有名です。
マッカーサー
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終戦記念日
 ■ 沖縄(慰霊の日)
1945年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、琉球政府及び沖縄県が定めた記念日である。復帰前は、住民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)に基づく公休日とされました。

1972年の本土復帰後は日本の法律が適用となり、慰霊の日は休日としての法的根拠を失ったが、1991年に沖縄県の自治体が休日条例で慰霊の日を休日と定めたことによって再び正式な休日となりました。そのため、国の機関以外の役所・学校等は休みになります。

地方限定の公休日であるため、当該日が日曜日にあたっても翌日(6月24日)が振替休日にはなりません、過去には学校などによって翌日も休日とする例もありました。なお、国立大学法人である琉球大学は、1999年までは通常通り授業を行っていましたが、2000年より授業は休講としています。なお、教職員などは国家公務員扱いのため休日とはなりません。

毎年、この日には糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行なわれています。
 ■ 広島(広島平和記念式典)
広島平和記念式典とは毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に広島平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典です。なお正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」といいます。
平和記念公園が開設された1954年以降は現在の形式で行われています。1971年には佐藤栄作が日本の首相として初めて式典に出席しました。

なお被爆から65年以上が経過し、被爆体験を持つ人たちの平均年齢が76歳を超えたことで、被爆経験が戦争経験と同様に風化してきていると指摘されています。

この式典の性格は原爆を投下したアメリカに対する反米感情よりも、むしろ恩讐を超えた世界の恒久平和への希求であるとしています。冷戦時代には人類を滅亡へと導く手段として、現在では核拡散によって過激な集団によって大量殺戮しかねない方法として、破壊のための核兵器使用の危険性がある以上、核兵器の存在を認めず廃絶を求めることは世界最初の被爆地として責務であると、歴代の広島市長は平和宣言の中で訴えています。
 ■ 長崎(長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典)
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は、毎年、長崎県長崎市に原爆が投下された8月9日の原爆忌に平和公園で行われます。原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典です。 一般的には略して長崎平和祈念式典と呼ばれています。
式典は会場である平和公園の平和祈念像前において、原爆死没者の遺族をはじめとして、市民多数の参加のもとで挙行されます。毎年長崎市長によって行われる平和宣言は核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けているものであり、世界各国に送られています。

原爆が投下された午前11時2分に長崎の鐘やサイレンを鳴らし、式典会場のみならず、家庭、職場で原爆死没者の冥福と恒久平和の実現を祈り、1分間の黙祷を行ったあと、長崎市長が平和宣言、平和への誓いを行うのが通例です。また当日の長崎市の各所では、原爆死没者に対する慰霊と核兵器廃絶を訴える式典が行われています。

近年は、平和教育の一環として、式典の司会進行を、市内の高校生に行わせています。また、水を求め死んでいったという故事を受け、「献水」が行われるが、これにも市内の小中学生代表を参加させています。平和公園での式典において、小学生による平和の誓いが行われますが、これは爆心地に近い山里小学校と城山小学校の六年生が毎年交代でおこなっており、奇数年は城山小、偶数年は山里小となっている。なお、当初原爆の投下目標とされた北九州市小倉北区においても、同時並行で式典が行われており、長崎市長が毎年メッセージを寄せています。
平和祈念 被爆
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国神社
 ■ 概要
東京招魂社という名称であったが、後に現社名靖国神社に改称されました。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括しました(陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)。1946年(昭和21年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となりましたが、国家との関係を廻る所謂「靖国神社問題」を惹起する存在ともなっています。なお、単立宗教法人(単立神社)であるために神社本庁との包括関係には属していません。

境内は桜の名所として知られる他、大鳥居が東側に向いている、数少ない神社の一つでもあります。
戦後は政教分離政策の推進により国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなったものの、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等が批判され、様々な問題が生じています。
 ■ 靖国神社問題
小泉首相が靖国神社への参拝を継続し、国内外で大きな政治問題になりました。靖国神社参拝をめぐり最初に政治問題になったのは、1985年8月15日の中曽根首相の公式参拝。それへの内外からの批判を受けて、86年8月後藤田官房長官が談話で「(78年に合祀<ごうし>された)A級戦犯に対して礼拝したのではないかという批判」を招いたことを反省するとして、以後、参拝を取りやめていました。

2001年4月に就任した小泉首相は総裁選時から参拝を明言し、就任以降も姿勢を崩さず、そのため中国・韓国は外相会談などの折に日本側に再考を強く求め続けていました。01年8月15日が近づくにつれて両国は姿勢を硬化させたため、最悪事態を回避すべく、小泉首相は8月13日に前倒しして参拝しました。02年4月21日、首相は春季例大祭に合わせて靖国神社を参拝、同時に終戦記念日には参拝しない意向を表明しました。これに対し同年秋のメキシコでの日中首脳会談で中国は強く参拝中止を求めました。03年には1月14日、04年には1月1日、戦後60年にあたる05年には10月17日に参拝しました。中国・韓国の批判は靖国神社のA級戦犯の合祀に加えて教科書問題なども絡んだ歴史認識に向けられており、これに対し小泉首相は「二度と悲惨な戦争を起こしてはならないという不戦の誓い」のためと説明しています。

06年9月の自民党の総裁選でこの問題が争点となるなか、注目された8月15日に参拝を強行しました。それに対して中国・韓国は抗議しましたが、以前より抑制されたものでありました。9月の自民党の総裁選で勝利した、安倍晋三官房長官が総裁・首相となり、07年9月には安倍首相退陣の後、福田康夫元官房長官が自民党総裁・首相に就任しました。両首相とも、靖国神社への公式参拝は見送っています。
 ■ 靖国神社問題を分かりやすく整理してみる
靖国神社については、単なる慰霊、宗教の問題を大きく超えて、政治、外交の問題にまでなってきています。
 それでは、靖国神社の何が問題となっているのか、大きく3つにまとめてみます

(1)侵略戦争の象徴でもあり、これを認めると軍国主義の復活に繋がる
(2)政教分離に違反する
(3)外国(中国と韓国)が批判している
 ■「追悼」「顕彰」「慰霊」
また、この靖国神社の問題を語る上で重要な言葉が3つあります。「追悼」「顕彰」「慰霊」ですが、これらの言葉の意味をまとめますと、以下のようになります。

 「追悼」:死者をしのんで、いたみ悲しむこと
 「顕彰」:功績などを世間に知らせ、表彰すること
 「慰霊」:死者の霊魂をなぐさめること

 日本においては不幸な死に方をした人は手厚く葬らないといけない、という思想があります。戦没者の祀りについてはこの3つを組み合わせる形になります。
 亡くなられた方を追悼し、国のために頑張って頂いたことを顕彰し、みたまさまが安らかにお鎮まり頂くよう慰霊する、これを一通りしないと、日本人はどうしても気が収まらないところがあります。
 未だに戦死者の遺骨を回収していますが、あれも慰霊の一環だと考えないと、行動自体が理解できないと思われます。
 ■A級戦犯について
中国からの抗議の中にもありますが、大きな問題になっているのはいわゆるA級戦犯についての議論です。A級、B級C級との差は罪の大きさではなく、A級は「平和に対する罪」という新しくこしらえた罪のことです。A級戦犯といえば東条英機、あとはよく知らない、というのが大半の人の認識だと思いますが、A級戦犯で興味深いことは

・国内的には犯罪者ではない
・毎年8月15日に行われる全国戦没者追悼式でA級戦犯の遺族にも招待状が出されている
(公式にはA級戦犯も対象かどうかは何も言っていない、というのが見解のようですが)

しかしながら、とにかくA級戦犯が悪いということで出てきたのが、靖国神社からA級戦犯分祀しろという主張です。
 ■ 靖国神社問題をさらにわかりやすく
日本が戦争に負けた後、日本の指導者たちの責任を追及するといって戦争に勝った側のアメリカやイギリスなど連合国が裁判を開きました。
これが「極東国際軍事裁判です。東京で開かれたので東京裁判ともいいます。
この裁判で裁かれた日本の指導者は「A級戦犯」と呼ばれました。戦犯とは戦争犯罪人という意味です。「日本は戦争で中国などアジアの人たちをひどい目にあわせて苦しめた。その戦争をはじめた責任が指導者にはある」というのです。
この指導者のうち裁判で死刑になった人などあわせて14人がその後、靖国神社にまつられました。靖国神社は「裁判で裁かれたといっても指導者たちも国のためを思ってなくなったのだから同じようにまつろう」といってほかの戦死者といっしょにまつりました。

中国や韓国は、この指導者たちがまつられていることに怒っているのです。

どういうことかというと「中国や韓国は戦争で日本からひどい目に合わされた。その戦争を起こした指導者がまつられている靖国神社を政府のトップの総理大臣がお参りするというのはおかしい。総理大臣は戦争を反省していないのではないか」というのです。
靖国神社 東京裁判
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終戦記念日 2013年に放送されたドラマ
 ■ さとうきび畑の唄 

第二次世界大戦の中沖縄で一生懸命に生きた家族の姿が描かれています。

明石家さんま、黒木瞳、上戸彩が出演していて最高視聴率32.2%という数字を出しているドラマ。(平成15年度文化庁芸術祭大賞受賞作品)
 3月10日〜東京大空襲 語られなかった33枚の真実

東京大空襲の無残な惨状を撮影した人が主人公になっているドラマ&米国取材、東京大空襲を生き延びた人の証言を収録しているドキュメンタリー。

ドラマでは惨状を撮影した主人公に仲村トオルさんが挑戦しています。

戦後に写真のネガを連合国軍最高司令官総司令部に提出するよう命じられたけど最後まで拒否し、命をかけて守り続けたネガを自分の家の庭に埋めてしまうんだけどすごく心に染みます。

 ■最後の赤紙配達人〜悲劇の“召集令状”64年目の真実〜

召集令状、通称赤紙を配達する仕事をしていた西邑仁平さんを題材にしているドラマと滋賀県大郷村から出征した人たちがどんな運命をたどったか取材を基に送るドキュメンタリー。

ドラマでは召集令状だけじゃなく戦死公報の配達もしないといけない西邑仁平さんを演じた俳優、吉岡秀隆さんの悲しい目がとても印象的です。

 ■ 総理の密使〜核密約42年目の真実〜
沖縄返還をめぐってアメリカとの交渉にあたった当時の総理、佐藤榮作の密使「若泉敬」さんのドラマとドキュメンタリー番組。

三上博史さんの演じる若泉敬さんが墓場まで持っていくつもりだった「密約」は沖縄返還から22年の後自らの著書で明らかになる。

ドキュメンタリーでは亡くなった若泉さんについていろんな関係者に取材、貴重な証言を基にして秘密交渉、彼の思いを追っていきます。
さとうきび畑 はだしのゲン 戦争 社会 世界平和






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