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左義長とは
■ 左義長
 内容

■ 起源
どんど焼き、左義長とは?
■ 二つは同じ?
■ どんど焼きと左義長の由来
■ 地域の呼び名
左義長祭り
■ 近江八幡の左義長
■ 左義長の制作
■ 参加者と変装の謎
■ 祭りのスケジュール
勝山左義長
■ 勝山左義長とは
■ 勝山左義長の起源
■ 松飾り(ご神体)
■ どんど焼き
京都 大原 三千院
■ 日時など
■ 法要内容
左義長とは
 ■ 左義長
左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なる(後述)。日本全国で広く見られる習俗です。
左義長 小正月 火祭り 習俗 日本
 ■ 内容
1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼きます。その火で焼いた餅(三色団子の場合もある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われています。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われています。道祖神の祭りとされる地域が多いです。

民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされます。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられています。

とんど、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きとも言われますが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられています。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字だといわれています。

子供の祭りとされ、注連飾りなどの回収や組み立てなどを子供が行います。またそれは、小学校などでの子供会(町内会に相当)の行事として、地区ごとに開催されます。

地方によって焼かれるものの違いがあります。
だるまを焼くかどうか
1.縁起物を祭りで焼く事により、それを天にかえします。
2.目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かない
3.だるまそのものが登場しない

橙(みかん)は代々続くようにと子孫繁栄を願った物を、燃やし易くする為に踏み潰す事が縁起上良くないとされ、実施する地域の分布図や形態については、川崎市民ミュージアムに展示があります。また、実施しない地域でも、ある特定の日にお札を焼く行事を執り行う地域があります(12月29日など)。最近[いつ?]はダイオキシン問題で取りやめているところもあります。
門松 民俗学 町内会 縁起物
 ■ 起源
『弁内侍日記』建長3年1月16日(1251年2月8日)、『徒然草』にみえるから、鎌倉時代にはおこなわれていたらしいと言われています。
起源は諸説ありますが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあり、小正月(1月15日)に宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事があり、その年の吉凶などを占ったとされます。すなわち、山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供されました。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれました。

これが民間に伝わり、現在の形になったとされています。どうして現在一般的な「左義長」という字があてられたのは、不明です。
弁内侍日記 宮中行事 陰陽師 徒然草
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どんど焼き、左義長とは?
 ■ 二つは同じ?
一部の沖縄県以外の全国で、広く行われていて、地域によっては、呼び名が違ったりするので、聞きなれない人もいるかもしれません。
一般的には、「どんど焼き」、「左義長(さぎちょう)」の名前で知られています。
この二つは、全く名前が違うのですが、同じものなんです。
全国的に、1月14日か、1月15日の小正月(こしょうがつ)、田んぼなどに、長い竹を組んで火をつけ、子どもたちと火を囲みながら、
その年に飾った、門松やしめ縄などの正月飾りや書初めなどを燃やして、一緒に歳神様を空へ送りだすものです。
また、その火で、柳の枝や、細い竹などに刺したお餅を焼いて食べたりしますが、歳神様の恵みを体内に取り込むことで、一年、無病息災で過ごせるといわれています。
一部では、五穀豊穣、家内安全など、ご利益が多いところも。
田んぼ 餅つき機 無病息災 家内安全
 ■ どんど焼きと左義長の由来
出雲地方が発祥ではないかと言われていて、鎌倉時代には、すでに行われていたようです。

「どんど焼き」の由来
竹を燃やすと、節と節の空気がドンッと爆発したような音がすることから名づけられた説と、
「尊(とうと)や尊(とうと)」とはやしたてながら、燃やしたのが、なまったという説も。

「左義長」の由来
貴族の正月遊びで、毬杖(ぎっちょう)と呼ばれるものがあります。
ゲートボールのスティックに似たようなもので、木のボールを打ち合う、ホッケーのような遊びです。

小正月の1月15日に、青竹を立てたところに、毬杖のスティックを3本を結んで、扇子や短冊などを焼いていたことから、
「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれていました。

他に、「さぎちょう」の漢字には、
「三毬打」「左義長」「爆竹」「鷺鳥」があります。
 ■ 地域の呼び名
地域によって呼び名が違うので、
ざっと、取り上げてみましたが、
本当に色々な読み方があるんですね。
・あわんとり(千葉・茨城南部)

粟(あわ)や稗(ひえ)などの穀物から鳥や虫の害を除くことから
・お焚き上げ
・鬼火焼き(九州)

1月7日にあり、正月飾りについてきた悪霊(鬼)を追い払うことから
・おんべ焼き(おんべ)

一番上に飾る御幣(ごへい)のことで、なまった言い方
・御柴灯(おさいとう)(さいと焼き)(さいとう焼き)

神仏の灯明として焚く柴火(しばび)のこと
・かあがり(長野県南佐久郡小海町、南佐久郡南相木村、北相木村)
・かんじょ(新潟県村上市岩船)
・才(歳)の神焼き
・さぎっちょ(富山、石川、福井、高知、福岡、岐阜)
・三九郎焼き

諸説あり、病、災厄、重税という三つの苦労を追い払う祭りが一般的
・しんめいさん(広島県東広島市安芸津町)

天照大神、豊受大神の別称
・道祖神祭り

村境を守る神様で、厄除けや五穀豊穣、縁結びや安産のご利益も
・とうどうさん(愛媛県、東予地方)
・とんど(広島県、岡山県)
・とんど焼き
・どんと
・どんどや(九州)
・とんどさん(鳥取県)
・どんどろ祭り
・ほっけんぎょう(九州/福岡)

燃やすときの、はやし言葉
・ほじょり
・やははいろ(東北)
鬼火 天照大神 道祖神 縁結び 神
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左義長祭り
 ■ 近江八幡の左義長
近江八幡の左義長は元来、安土城下で行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝えられています。

織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入れましたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられています。

近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納されていますが、過去には中止されたり縮小することもあったようです。八幡開町から江戸初期頃までの左義長に関しての資料はありませんが、八幡町史では、宝永2年(1705年)まで行われ、同3年以降、34年間休んだという記録があり、町中残らず参加、以後毎年開催されるようになったのが元文5年(1740年)と記されています。

他にも、寛延元年(1748年)朝鮮通信使来幡につき中止、安永8年(1779年)左義長29基が奉納、天保5年(1834年)米穀貴重のため禁酒にて行う、慶応4年(1868年)維新騒動のため休止、昭和3年御大典を祝い31基奉納 等々、左義長まつりも時代を反映していたことが分かります。
近江八幡 織田信長
 ■ 左義長の制作
左義長は松明、ダシ、十二月(赤紙)の3つの部分を一本(基)にし、前後に棒を通し、つり縄で括り固め御輿のように担ぐように作り上げます(これ全体を左義長と呼びます)。前方となる正面に「だし」と呼ぶ作り物は意匠を凝らし、時間をかけ経費を惜しまず各町の誇りをかけて制作されます。

かつて「ダシ」は町の器用で作り物の得意な人によって、専門的に手がけられていましたが、現在は町内の人々の手作りによりその年の干支に因んだ物を主としテーマを決めて制作されます。ダシコンクールの優勝を目指して力が入ります。
干支の作り物を「むし」と呼び、背景は円形、方形、扇形など「台」と呼ぶ部分を作り取り付けます。この素材が、穀物「大豆、黒豆、小豆、胡麻等)や海産物(鰹節、昆布、するめ、干魚等)の食物を使って、その素材の色を活かして作り上げることが大きな特徴です。以前の左議長は今より高く大きかったのですが、街中に電線がひかれたこと、また担ぐ力の関係からも現在の大きさになったようです。

毎年、年が明けると本格的な準備に入り、制作の経費や作業も各町毎で協力しながら、年毎に新たな左議長を作る喜びを分かちあい、祭りの当日を迎えます。
穀物 黒豆 小豆 胡麻
 ■ 参加者と変装の謎
左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その服装は、揃いの半纏を羽織る姿が一般的です。近年は少数になりつつありますが、女物の長襦袢を着用したり、化粧をするなど、変装した格好で左義長まつりへ参加するものも少なくはありませんでした。

これには、諸説ありますが、織田信長が自らの正体を隠すために派手な出で立ちで参加したとの話を、近世の人々が変装するものと解釈したのではないかと言われています。

左義長を担ぐ人々は口々に「チョウヤレ・チョウヤレ」と「マッセ・マッセ」と声を発しています。前者は「左義長さしあげ」後者は「左義長めしませ」からこのような掛け声になったものと思われます。
 ■ 祭りのスケジュール
午後、日牟禮八幡宮にて行事順を決める「みくじ祭」があります。次の日は13時に左義長が日牟禮八幡宮へ勢揃いします(この時に山車コンクールの審査も行われます)。14時から渡御(旧町内巡行)が行われ、17時半頃からはダシコンクールの表彰式(日牟禮八幡宮 能舞台にて)が行われます。

午前中から各町の左義長が旧城下町を中心に自由に練り歩き、「組合せ」(左義長のけんか)が行われます。そして20時からみくじ祭での奉納順に従い左義長は順次奉火され(一番から五番までは一斉奉火)、最後の左義長が燃えるまで、祭は夜遅くまで続きます。

 近江八幡の左義長まつりは、「天下の奇祭」とも呼ばれますが、他にも、この祭りが終わると本格的な春が訪れることから、「湖国に春を告げるお祭り」などと形容されます。京阪神や中京圏を中心に観光客並びにカメラマンが例年5万〜7万人もの人々で賑わう滋賀を代表するお祭です。
スケジュール 山車 カメラマン 城下町
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勝山左義長
 ■ 勝山左義長とは
勝山市の「左義長」は小笠原公入部以来300年以上の歴史を誇っており、毎年小正月の行事として、旧暦の1月14日に行なわれていました。
現在は、観光客や祭り主催者の利便を考慮して、2月の最終土曜、日曜に開催しています。
勝山市街地の各町内に12基の櫓を建て、その上で赤い長襦袢姿の大人たちが子供を交え、独特のおどけ仕草で三味線、笛、鉦による軽快なテンポの囃子にのって浮かれます。この様は全国で「勝山左義長」だけの特徴であり、人々はこれを奇祭と呼んでいます。
日曜日の夕方になると、各町内の御神体が弁天桜で有名な弁天河原に運び込まれ、「ドンド焼き」の準備が進みます。
午後8時30分、神明神社で採火した御神火が各区の松明によって、弁天河原のドンド焼き会場に運ばれ9時の狼煙を合図に一斉に点火され、冬空美しく雪に映えて燃え盛る炎の競演とともに祭りのフィナーレを迎えます。
この「ドンド焼き」で神を送り、五穀豊穣と鎮火を祈願しながら2日間にわたる火祭りの行事が全て終了します。
「勝山左義長まつり」は、奥越地方に春を呼ぶ祭りと言われ、これを境に勝山に春の足音が聞こえてきます。
 ■ 勝山左義長の起源
勝山町における左義長がいつごろから始められたものかはよくわかっていません。 江戸時代において「左義長」「顕如講」「御前相撲」は、町の三大年中行事として、勝山町だけでなく藩領の域をこえて、近郷の人々が見物に押しかけました。「御前相撲」は八幡社、のちには町の氏神を祀る神明社で行われ、歴代の藩主が観覧するのが恒例でした。 この事実が示すように、「御前相撲」は幕末まで勝山を支配した小笠原藩との関係が深い行事でした。

それに対し「左義長」は、下町の行事として始められたものであったと思われます。 現在は「勝山左義長」と呼ぶように、あくまでも町の年中行事として、町民が主体となり町民の自治のもとに行われ、結果として町民の結束を強める役割を果たしてきました。
相撲 藩領 下町 散歩 年中行事
 ■ 松飾り(ご神体)
各町内に建てられる松飾りは、中央に四メートルほどの松か杉の生木をたてて「心」とし、四本の松、もしくは竹を結んで四角錐に組み、櫓の正面にたてます。松飾りの頂上には日の丸扇子などで飾られた御幣を取り付けます。
松飾りの中央より細竹二本を左右斜めに掛け合わせ、高く延ばし、その先端葉先より扇三本を細紐に順次垂らし、一番下に紅白の房がついた三角形の火打ち(燧)袋を飛鳥のごとく飾りつるします。
二つの火打ち袋はドンド焼きの前に外されて、区長と年番が持ち帰り、魔除けとして門口や玄関などに翌年までつるされます。
 ■  どんど焼き
二日間の祭りが終わり、松飾り、櫓、短冊等の後片付けも無事すんだ事を感謝する左義長本来の神事です。
注連縄・門松・御札などを松飾りに取り付け、藁で積み重ね、現在は午後9時より弁天河原にて点火されます。
昭和60年(1988年)ごろより神事としてドンド焼きに御神火送りが行われるようになりました。古来より左義長は鎮火祭とも深く関係があり、火祭りもあわせ、神明神社に祀られている「火産霊神(火の神・迦具土神)」の御火を「御神火」として頂きます。
短冊
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京都 大原 三千院
 ■ 日時など
1/15(火)

日時 1月15日 午前10時奉修(約1時間)
場所 金色不動堂前広場
法要 御札発遣法(おふだはっけんほう)
備考 ※招待対象:大原住民、大原小・中学校生徒
    一般参拝者随喜可能

催し物:
内容 ぜんざいのご接待
場所 不動堂広場
期間 当日 開門〜閉門まで
対象 参拝者全員 法要出席者(小中学校生含む)
 ■ 法要内容
左義長は、一般に「お焚き上げ」「どんど焼き」という名称で広く知られていますが、本来は 宮中における小正月の火祭行事で、正月の松や注連飾り、全国から寄せられた古い祈祷札やお守りなどを焚き上げます。
その火の燃えぐあいによって年占いを行う地方もあります。三千院では、参拝者の過去の罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)と今年の無病息災を祈願いたします。仏さまにお供えした鏡餅を開き、厄除けの「おぜんざい」としてお接待いたします。
お守り 三千院 参拝 厄除け
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