原爆記念日の情報が盛りだくさん
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原爆記念日
■ 原爆記念日とは?
■ アメリカが原爆投下を決めた理由
広島
■ 広島原爆記念日
■ なぜ広島が選ばれたのか?
■ 8月6日午前8時15分
長崎
■ 長崎原爆記念日
■ なぜ長崎が選ばれたのか?
■ 8月9日午前11時15分
広島・長崎の原爆による被害
■ 熱線による物的被害
■ 熱線による人的被害
■ 火災による被害
■ 爆風による被害
■ 放射線による被害
原爆記念日
 ■ 原爆記念日とは?
1945年昭和20年、
第二次世界対戦の末期にアメリカ軍によって
広島と長崎に落された二つの原子爆弾を決して風化させてはならない、伝えていかなければならない、
平和を願うための日です。
広島:8月6日午前8時15分
長崎:8月9日午前11時02分
原爆 原爆
■ アメリカが原爆投下を決めた理由は?
日本をできる限り早く降伏させて米軍の犠牲を少なくしたかったことと、1945年のアメリカ、イギリス、ソ連の首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていたので、アメリカはソ連の対日参戦よりも前に原爆を日本に落とし、戦争が終わった後ソ連より優位に立ちたいと考えていたこと、アメリカは原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかったこと、この3つの理由が日本に原爆を落とす理由と考えられています。
日本降伏 新兵器
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広島
 ■ 広島原爆記念日
終戦直前の1945年(昭和20年)、広島県広島市に原子爆弾が投下された“8月6日”は、今でもこの日を原爆記念日として、毎年広島で平和式典が開かれています。
 ■ なぜ広島が選ばれたのか?
1945(昭和20)年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始めました。
投下目標は、原爆の効果を正確に測定できるよう直径5km以上の市街地を持つ都市の中から選び、空襲を禁止しました。
7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下しました。
広島を第1目標とする命令を出したのは、8月2日。それは目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたからです。
また、終戦までに日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど壊滅状態のなか、広島はまだ決定的な被害を受けていませんでした。
広島が原爆投下の目標に選ばれた理由には、 広島はまだ空襲を受けていないことや、都市の大きさ、山に囲まれた地形が、原爆の威力を確認しやすかったこと・広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていたことが挙げられます。
8月6日、広島の天気は晴れ。広島に原爆が落とされることが決定しました。
 ■ 8月6日午前8時15分
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、それまでの広島は美しく、静かな街でした。次の瞬間、目をくらますほどの閃光が走り、ドカーンという大音響とともにリトル・ボーイという名前の爆弾が広島の街を破壊しました。
爆心地から半径2キロメートル以内にいたほとんどの人々が亡くなり、建物も破壊されました。この一瞬の爆発で30万人の民間人の生命を奪いました。
広島 戦争 リトルボーイ
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長崎
 ■ 長崎原爆記念日
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、
長崎に投下されたファットマンという名前の原子爆弾により、街は壊滅的な被害を受け、多くの尊い人命が奪われました。
長崎 戦争 長崎 戦争
 ■ なぜ長崎が選ばれたのか?
長崎には、三菱重工長崎造船所があり、世界最大の戦艦『武蔵』などが作られ、軍事的な意味からも長崎に原子爆弾を落とすことは必要でした。しかし、当時長崎の人口は約25万人と、アメリカ軍にとっては、原子爆弾の威力を確かめるには、少し小さすぎる町でした。
8月2日の原爆投下作戦命令書には、攻撃する日を「8月6日」にすること、第1攻撃目標を「広島市中心部」、第2攻撃目標を「小倉市中心部」、第3攻撃目標を「長崎市中心部」とし、投下条件として、目視投下のみとしています。これは、原爆が爆発した時の様子を記録するという必要性からでした。
8月6日には、第1攻撃目標の広島に原爆が落とされ、その威力がすごいものであることが確認されました。
そして運命の8月9日、第2攻撃目標である九州小倉に向かったボックスカーは、悪天候や様々な理由のために、目標を第3攻撃目標である長崎に急遽変えなければならなくなったのです。
このように、運命のいたずらにより長崎が2発目の投下目標都市に選ばれたのでした。
戦艦 武蔵 戦艦 武蔵 原爆 長崎 原爆 長崎
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 ■ 8月9日午前11時2分
それまでの長崎は歴史もある、多くの労力も集まる企業城下町でもありました。
1945年8月9日午前11時2分
次の瞬間、ピカ(閃光)と光ってドーン(爆風)という音が聞こえました。
約14万9千人の人が亡くなりました。
長崎 歴史 長崎 歴史 長崎 歴史 ピカドン
広島・長崎の原爆による被害
 ■ 熱線による物的被害
爆心地近くでは熱線により、燃えるものが全てが火をふきました。
解けたガラスや、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが激しさを物語っています。
爆心地から遠ざかるにつれて熱線は弱まっていましたが、それでも2キロメートル以内では、衣類、電柱、樹木などの表面が燃えたり焦げたりしていました。
 ■ 熱線による人的被害
熱線による高熱は人々の皮膚に浴びせられ、熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらしました。
爆心地からの距離によって負傷の程度は異なりますが、重症になると皮膚が焼け爛れ、剥がれ落ち、皮膚の下にある組織や骨までが見えていました。
1・2キロメートル以内では熱線だけでも致命的で、爆心地付近では高熱によって一瞬で体が炭化して、内臓の水分まで蒸発しました。
 ■ 火災による被害
熱線と爆風による被害は、火災によってもっと大きくなりました。
爆風の被害が家屋の半分で済んだところも、後に起きた火災の影響で全焼してしまいました。
全焼壊家屋は12,900戸、半焼壊家屋は5,509戸にのぼります。
火災による犠牲者も多く出ました。
倒れた家屋の下敷きになっていたとしても、火災が起きなければ助かった人は多かったはずです。
■ 爆風による被害
爆心地より1キロメートル以内のところでは、一般家屋は原型をとどめていないほどに破壊されました。
鉄筋コンクリートの建物などが少し残りましたが、どれも建物とは言いがたいほどに無残な状態でした。
このようなすさまじい爆風に人々は吹き飛ばされて、散弾のような沢山のガラスや木片を全身に浴びることになりました。
■ 放射線による人体への被害
原爆の放射線は人体を通り、そのとき色んな細胞を壊していきます。
損傷の程度は被爆した量により異なりますが、爆心地から1キロメートル以内で被爆した人のうち、外傷がなくても多くの人が亡くなっています。
放射線の破壊力はそれほど強いものでした。
人体に及ぼす害は爆発の時だけではなく、放射線は体の奥を傷つけて、時間とともにいろいろな症状を引き起こします。
原爆被害 原爆被害







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